年忘れ特別コラム「なぜ私は名古屋競馬が好きなのか」

2024-12-31

コラム:馬を訪ねて三千マイル

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なぜ私は名古屋競馬が好きなのか。

それは。時間がありすぎて地方競馬を見るくらいしか暇をつぶせなかったとき,ほどよくやる気のない(ように見える)競馬をしていてくれたのが名古屋競馬だったからだ。

昭和53年の早生まれだった私は,順調にいけば2000年に大学を卒業するはずだった。まさにロスジェネど真ん中である。その2000年に大学卒業者の22.5%が学卒無業者というバブル後最悪の数字を記録した。

もとより,学部を出て就職するつもりなんてなかった。大学時代は奨学金を借りていた。無利子のものに加え利息付きのものも最高額を借りていた。就職すると返済がはじまる。それはつらい。大学院へ行った。また奨学金を借りた。無利子のものに加え利息付きのものも最高額借りた。2年が過ぎた。就職すると返済がはじまる。それはつらい。また別の大学院を受けた。奨学金を借りた。無利子のものに加え利息付きのものも最高額借りた。働いたら返済しないといけない。学生で居つづければ返済しなくて済む。それどころかさらに借りられる。まさに「働いたら負け」な世界。

研究したいわけでも勉強したいわけでも東大の院生という最低限の世間体を確保したいわけでもなかった。ただ現実を見たくないだけだった。だから,平日も週末も朝も昼も夕方も夜も暇だった。お金はなかったが時間だけは掃いて捨てても振って湧いてくる晩秋の銀杏のようにあった。

朝のワイドショーを見たあと,暴れん坊将軍の再放送を見ながらやれる地方競馬に魅かれたのは必然だった。とはいえ,まだこの当時は土日に中央競馬を見ていた。平日の暇つぶしが必要だった。

道営は平日やっていてよかったのだけれど,門別と札幌は昼間で旭川がナイターだったから,ペースが作れなかった。ばんえいは難しすぎた。岩手は土日月で中央とかぶっていた。浦和と船橋は開催が少なかった。金沢は魔境すぎた。福山は平日やったと思うと日曜に1日だけ開催したりしてよくわからなかったし,なによりダビスタ世代にはアラブの血統がわからなすぎた。「父ビソウエルシド」とか「母の父サチエノヒリユウ」とか言われてもなんのことやら…。促音や拗音が小文字にならず大文字なところに玄人限定感が漂っていた。本気でアングロアラブ版のウイポを出してほしいと当時は思っていた。1,250mっていう中途半端な距離もハードル高く感じたし,斜めすぎるゴールカメラも素人お断り感があった。晩年は「モーニングとく選」とか「オープニングとく戦」っていうレース名が慣れなかった。「3歳2組」ではなく「3歳2条件」っていう表現もただものじゃない感じがした。ようやく見慣れて来た頃に「3歳2条件」は「3歳条件2」に変わった。「簡単にはお前を受け入れないぞ」感がすごかった。

高知は週末だったしE級とかD級とかあってハードルが高かった。内を開けたレースにも慣れなかった。佐賀も週末だった。荒尾は平日でのんびりしていて競馬場からの映像もきれいで本馬場入場曲やファンファーレも味があってとてもよかった。が如何せん売れていなさすぎた。「これ穴馬だなと思って複勝を買うと,万,どころか千円,どころか500円買ってもオッズが半分になったりした。流石にこの競馬場をメインにするのは無理があった。

残ったのは名古屋・笠松と園田・姫路だった。園田・姫路にはまだアラブが多く残っていたし,「D」とか「F」っていうクラスが意味わからなかったけれど(福山・高知のときとおなじようなことばかり言うが,西日本にある競馬場の「D7三」みたいな格付の謎さはしんどかった),それよりなにより,園田・姫路はレースぶりがつらかった。スタートからみんな結構頑張って位置を取りに行く。いったん緩んだと思ったら向こう正面からみんなすごい勢いでガシガシ追う。みんなめっちゃ頑張って追う。めっちゃ捲ってくる馬がいる。直線もめっちゃ追う。それに応えてめっちゃ差してくる馬がいる。観客もめっちゃ声を出す。実況もめっちゃ盛り上げる。ニートにはこれがつらかった。「世の中頑張らなきゃダメだ」と言われているようだった。そんなのいやなんだ。頑張りたくはなかった。勝ち組だとか負け組だとかどうでもよかった。退廃的な地方競馬で退廃的で怠惰なくらいに思える競馬が見たかった。それが生きることへの安心につながるのだ。ニートにとって兵庫競馬は元気すぎた。

東海,特に名古屋競馬は兵庫の真逆をいっていた。競艇よろしく1コーナーのポジショニングで結果はほぼ決まっていた。道中にはなんの動きもなかった。3コーナーにも動きはなかった。4コーナーになると前の馬が差を広げていた。直線差してくる馬は皆無だった。実況は淡々とその模様を語り,ゴールしたあと「キュッ,キュッ」と自身の持っている競馬エースに赤ペンで順位を書き記す音がマイクで拾われていた。誇張じゃなく,スタートして1コーナーを見届けたあとトイレへ行ったことが何度となくある。用を足して戻ってきたとき意外な光景が目に入ってくることはまったくなかった。


とはいえ一流競馬場の風情もあった。何より予想するのに十分なデータが専門誌から得られた。競馬エースにも競馬東海にも「中 間 軽 め」の文字が並ぶ調教欄がしっかりあり,関係者のコメントがあり,まだ当時は1頭1頭記者の見解がしっかりあってレース展開予想や総合的な短評も載っていた。紙面レイアウトも中央の専門誌に近い近代的なものだった。パドック解説もいいものはいい駄目なものは駄目とはっきり言ってくれるすばらしいものだった。クラス分けのルール上,常に同じ馬がほとんどおなじメンバーと走っていた。だから3連単の配当は3桁ばかりだった。けれど情報が十分にあったから,馬の個性が把握しやすかった。「この馬は外枠じゃないとダメなんだな」とか「ノドが鳴るから空気が湿ったときだけ走るんだな」とか「丹羽さんに乗り替わったときだけびっくりして好走することがあるぞ」とか,1頭1頭めちゃくちゃ頭に入っていた。おなじメンバーと走っているせいでパドックの縦の比較もしやすかった。だから穴馬券がとりやすかった。みんなが堅い結果を予想しているせいで,時計上位の組み合わせに人気が集中していた。ちょっとズレると平気で5万10万20万の配当になった。そしてその結果は意外なものでなかった。毎日毎日競馬を見て馬の性格がわかった気になっているこっちからすれば必然とも思えるような結果でも10万馬券だったりした。「このまま競馬で食っていけるかもしれない」と過信させてくれた。生きる活力を束の間与えてくれたのだ。

一流競馬場なので開催も多かった。当時は6日間開催もあった。「ホリデーのため明日は競馬がありません」という表現が残っていたのは南関と東海だけだった。最低でも4日開催で持ちこたえていた。当時は大晦日にも競馬があった。そして元日からまた開催していた。文字通り,名古屋競馬は1年中開催していた。ニートのためにあるような競馬場だった。年末年始は笠松も開催していて,馬券を買うのがめちゃくちゃ忙しかった。それが特別な「ハレ」の雰囲気を演出していた。

そんな愛する名古屋競馬もだいぶ変わった。逃げ馬はバテるようになった。内を開けるようになった。差してくる馬もいる。丹羽さん以外の騎手もガシガシ追っている。今日は大晦日なのに競馬が開催されていない。なにより移転してきれいになってしまった。トイレに入っても「もっと前に出ないと的中しませんよ」という張り紙はない。スタンドには若者が増えた。なんなら老人より若い人の方が多いくらいだ。競馬が難しくなって馬券はまったくあたらなくなった。何もかも変わってしまった。

自分は相変わらず頑張りたくないし「勝つ」ことに何の興味もない。ちょっと今の名古屋競馬とは心の距離ができた気がするけれど,それでもそんな自分にも居場所があるのが名古屋競馬のいいところだ。いつか尾張名古屋杯の大晦日開催が復活するのを夢見て,これからも名古屋競馬を買っていきたい。


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